【1】英語を学ぶことが何より好き! そんな若者を大きく変えた恩師の教え:羽織愛さんインタビュー
小学校4年生の時に近所の英語教室に通い始めたのをきっかけに、英語の魅力に取り憑かれたという羽織さん。その時から「私も家でお母さんをしながら英語の先生をやりたい」という夢を抱いていたといいます。大学も英米語学科に進学した彼女は、そこで日本における英語教育学の第一人者、故・若林俊輔氏と出会い、大きな衝撃を受けたそう。恩師との出会いは、いかにして彼女を変えたのでしょうか。
英語の先生になりたい! そんな夢を抱き続けた子ども時代
―子どもの英語教育に心血を注いでこられた羽織さん。ここまでこの仕事にのめり込むに至る、英語の原体験は何だったんですか?
「小学4年の時に、近所のお母さんが先生をしている英語教室に通い始めたのがきっかけです。そういう場所があるよ、と聞いて『行きた〜い!』と親に直訴したら、通わせてもらえることになりました。うちの父は洋画が好きで、私もよく一緒に観ていたので、『映画で話している英語を理解したい』という気持ちがあったんだと思います。もちろん、英語教育が何なのかなどは全くわかりませんでしたし、むしろ、素敵な先生だったので『私も大人になったら先生みたいになりたい』と思ったんですよね。当時の一番の夢は、お母さんになることでした」
―じゃあ、中学に入って英語の授業が始まった時は嬉しかったでしょうね。
「はい、英語の授業は大好きでした。他の教科では『ああ、勉強しなきゃ…』という感じでしたが、英語は『あ! 次は英語の時間だ!』という感じで、うきうきしていましたね。教わることのひとつひとつが、ああ、そうやって言うんだ、そうやって書くんだ、と新鮮でした。高校に入っても英語は一番の得意科目でしたね」
大学時代の短期留学先で、コミュニケーションが全く取れない屈辱体験を味わう
―大学は拓殖大学の外国語学部英米語学科に進学。もちろん、進学に当たっては英語を学びたいという気持ちに迷いはなかった?
「『私は英語教師になりたい』という小論文を書いて、推薦で入学しました。学部時代はアルバイトも塾の英語の講師をやっていました。英語力には結構自信もあったのですが、生まれて初めての海外渡航で1ヶ月だけイギリスに短期留学した際、カフェでアップルパイをオーダーすることができなかったんです。それどころか、ホストファミリーに『私は羽織愛です』と自己紹介した時すら通じなかった。その1ヶ月は彼らとほとんど言葉のコミュニケーションを取れず、大きなショックを受けました」
―成績もよく、英語力に疑いを持っていなかったのであれば、それはショックですよね。でも、羽織さんはそこでめげなかったんですね。
「そうなんです。次にはなぜか、大学で第二外国語として学んでいた関係から、フランスに行きました。当時の私は『日本人がいるところだと日本人同士で話してしまうからダメだ!』と思い、田舎町への短期留学を選んだんですが、実はフランス語は『お風呂』とか『お店』とかのレベルすらわからない。もちろん、田舎だけに英語も通じなかったので、命の危険を感じるほど大変でしたね。そして、この経験が次に訪れたオーストラリアで役に立ちました。語学力は上がっていないのに、『フランス語に比べたら英語は簡単。何でも喋れる!』と思ってしまった(笑)。その自信から、コミュニケーション力はどんどん上がっていきました」
―しかし、大学生の間にいろいろな海外体験をされたんですね。
「ただ、両親とも海外に行くことにも、
これまでの英語教育は何だったのか……目から鱗が落ちた若林先生との出会い
―なかなか大変な学生生活だったのですね! それでも英語が学びたかった、その熱意に圧倒されます。
「実は、親の反対を押し切って大学院に進むことにしたのは、当時うちの大学の教授をしていらした若林俊輔先生との出会いがあったからなんです。先生と出会って、私の人生は大きく変わりました。初めて尊敬できる方に出会ったんです。それまでの英語教育で教えられることの中には腑に落ちないこともあったのですが、先生はそれをすべて解決してくださいました。先生の授業を受けるために、ガーン!と頭を打たれたような、目から鱗がボロボロ落ちるような衝撃を受けたのを覚えています」
―すごい出会いですね。
「どうしても先生の授業を受けたくて。例えば先生は『PEN』という単語は『P(プ)・E(エ)・N(ン)』という3つから出来ているということから教えてくださった。その分解方法を先に知っていれば! これを知らずに生きてきたなんて意味がなかった! と思うくらい。文法の仕組みや勉強方法についても、本当にいろんなことを教えていただきました。先生の授業を受けた帰りには、感激して泣いてしまっていたくらいです」
今も自分を成長させてくれる、敬愛する恩師に学んだこととは
―羽織さんが今行っている英語教育も、根本には若林先生の教えがあるということなのですね。
「はい。決して優秀な学生ではなかった私が、今ではいろんな方に英語を教えることができているのも、先生が研究の方法を教えてくださったからです。本当は、私は先生のもとで働きたかったし、なんとかして先生のお役に立ちたいと思っていました。ただ、先生は2002年、私が大学院2年目の年にお亡くなりになってしまった。悲しくて悲しくて、今も先生のお名前を口にするだけで涙が出てきてしまいますが、先生が見せてくれた大きな夢、つまり『日本の英語教育を変えなくちゃならない!』という夢をどうしても実現させたくて、なんとか頑張ってくることができました」
【まとめ】
次回はそんな羽織さんが、なんと結婚のために就職を諦めるという、意外すぎる人生の展開について伺います。